色を塗らない理由

こんにちは。ソーダ・ヒロです。

今回は自分が絵を描く際「絵に色を塗らない理由」なんぞという「どうでもええわい!」と

一蹴されそうなテーマを書いていこうと思います。


ちなみに、今は音源ジャケットなどを音楽作成と同時進行で行っております。

絵を描く時、最近はあまり色を塗らないです。

それは例えば人を描いたとしたら、人を肌色に塗らない、ということです。描いた線の枠内に色を塗らない。

昔は塗ってました。(今も塗ることはある)
絵を描いてそれに色を塗ったら完成。
そういうものだと思ってそうしてました。
でも思ったんです、
僕、、




色塗り下手だな、って、、、





す、すいませんしょーもない理由で。。
なんか色塗ると毎回絵は上手く描けたとしても台無しにしちゃうんですよね。。
思ったんと違う!!みたいな、、

その理由で色を塗らないことにしたのがきっかけですが、
その表現方法を続けていこう、という確固たる意志や意味、理由にはまた別のエピソードがあります。

あれは僕が小学生の高学年の頃、(←急に回想。。)
当時ミニ四駆が流行っていた中で、僕も「いっけーっ!」とか言いながら作っては走らせていました。
そんな時、父親がバイクのプラモデルを買ってくれたんです。
ワクワクしながら箱を開けてみると、、
そこにはエゲツないほどのパーツの量、、、。細か過ぎるくらいに細分化されたパーツ、パーツ、パーツ、、、。
ミニ四駆やSDガンダムくらいしか作ったことのない自分には少々レベルが高い代物でした。
一瞬躊躇いましたが、父親も手伝ってくれる、ということで作り始めました。
本当に苦労しました。とんでもなく大変でした。ドライバーも駆使しました。。
そうこうして、どうにかこうにか、やっとこさ形ができて、
僕はものすごい達成感を味わいました。ここまで作ったぞ!というそれはそれは大きな達成感です。
あれだけの細かなパーツがギッシリ詰まってバイクの形をしていることにすごく感動したんです。


ただ、最後のパーツが残っていました。




それは「カバー」




そのカバーは機械のパーツの詰まった側面を、背面を、前面を、全て隠してしまいました。
まぁ当然です。バイクなのですから。
機械むき出しのバイクなんて走ってやいないですから。

でも僕はその時、なんだかすごくやるせない気持ちになりました。
自分が苦労して作ったものが隠されてしまうこと、同時に父との思い出にも蓋をされたような感覚でした。
結局僕はそのバイクにシールを貼ることもせず、カバーをした姿のまま作業をやめました。

その記憶と感覚は今でも鮮烈に覚えていて、
今でも時々顔を出します。

そして、絵を描く中で
「そのものの良さを隠さない」
という感覚を大事にするようになりました。

輪郭や髪の毛、表情など、ボールペンで描く際に、迷って揺れた線、重ねた線、滲んだ線、そうした痕跡の残った絵は自分にとってはすごく魅力的に感じますし、絵自体にストーリーを感じるようです。
もしその絵に、髪を黒く塗れば線は消えます。肌に影をつければ線は曖昧になります。
だから個人的には他の人の絵を見るときも、「描いた」という事実が痕跡として残ってるものがすごく好きですし、
もっと言えば、デッサンの状態のものには特に魅力を感じます。

世間一般でいうところの「完成」ではなくても、僕にとってはそれは「完成」している、と思うのです。
ボールペンで描くのも、鉛筆だと消せてしまいますが、ボールペンだと消せません。描くときの迷いも意志も全て残ります。
だからボールペンで描くことにしています。

いわゆる色を塗ることが「完成」なのではなく、世間一般の完成のイメージの過程であっても、その絵が一番魅力的な姿である瞬間こそが「完成」、

すなわち、「未完の完」であると、

僕はそう思います。


すいません。。なんだか個人的過ぎる話で長くなりましたが、、、


ちなみにそのバイクは、今でも実家の僕の部屋に飾っています。
それを見るたび立ち返り、決意を強めてくれます。
結局、宝物なんですね。

そんな話でした。はい。

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