キリンジ「小さなおとなたち」歌詞解釈
仮に歌詞無しでラララ〜で歌えばおそらく『二度と会うことが叶わないと知りながら断腸の想いで別れを受け入れた二人の最後のシーン』くらいの重さも抱えています。
そしてサビでは迫ってくるようなメロディを畳み掛け、その儚さと切なさに胸が締め付けられます。
だからこそ不可解で、心に引っかかっていたんです。
そんな歌にはどんな意味が潜んでいるのか、考察していきたいと思います!
作詞:堀込高樹 作曲:堀込高樹
寒空の観覧車
ここまで降りてこい
濡れたベンチ コーヒーカップ通りをバスが渋々と膝と膝あわせて つがいのリスみたい
浦島太郎 地上に戻って
別世界ならばいいね
風吹け吹けぴいぷう吹け
頬を打て 樹々を揺らせ
浮かぶよ さあ、雲まで
小さな街の小さな夢が
小さな溜め息に
駆け抜けるジェットコースター
両手を高くあげ
握りしめた大人一枚
飛ばされていった どこへ
風吹け吹けぴいぷう吹け
頬を打て 樹々を揺らせ
浮かぶよ さあ、雲まで
小さな街の
小さな家の小さな大人たち
さよなら誰かさん 手を振る人よ
雨あがりの街 光る空に渡り鳥一羽
ゴンドラの窓から 冬の虹を見たかい
石のように弾む心
明日があるさ
明日があるさ
あしたがある
またあした
寒空の観覧車
ここまで降りてこい
濡れたベンチ コーヒーカップ通りをバスが渋々と
大人二人で来た冬の遊園地で、観覧車を見上げているシーンからこの歌は始まる。
先ほどまで雨が降っていたであろう遊園地のベンチにはまだ水滴が残ったままで、客もまばら、コーヒーカップも、園内を走るバスもどこか寂し気。
膝と膝あわせて つがいのリスみたい
浦島太郎 地上に戻って
別世界ならばいいね
降りてきた自分たちが乗る観覧車のゴンドラに乗り込み、膝を付き合わせ向き合って座ることがなんだか少し気恥ずかしい。
日常に抱える雑多な出来事や鬱陶しさ
も放り出してこの日常離れしたゴンドラからの景色にいつまでも浸っていたい。
風吹け吹けぴいぷう吹け頬を打て 樹々を揺らせ浮かぶよ さあ、雲まで小さな街の小さな夢が小さな溜め息に
劇的な出来事が劇的に日常を変えてほしい。それは自分でも予期できないほどの。
ゴンドラの窓から見える景色や人はとても小さく、ちっぽけで、そして自分もその中の一人だ。と。
駆け抜けるジェットコースター両手を高くあげ握りしめた大人一枚 飛ばされていった どこへ風吹け吹けぴいぷう吹け頬を打て 樹々を揺らせ浮かぶよ さあ、雲まで
小さな街の
小さな家の
小さな大人たち
場面は変わってジェットコースター。「握りしめた大人一枚」楽しいアトラクションに乗るワクワク感と、「飛ばされていった どこへ」そんな出来事も一瞬で過ぎ去ってしまう儚さが入り混じっている。
さよなら誰かさん 手を振る人よ雨あがりの街 光る空に渡り鳥一羽
日常に疲れた大人たちがそこから逃避するように遊園地で遊ぶこと、そしてそこから現実がチラチラ顔を覗いては憂鬱さに引き戻されるシーソーゲーム。そんな状況を柵越しに手を振る誰かに見送られ、雲まで届きそうな高い場所から俯瞰して見ている冷静な自分が少し寂し気に映し出されている。
「雨上がりの街 光る空に渡り鳥一羽」希望が映し出されるが、そうはさせん、とばかりに寂しいメロディ。
ゴンドラの窓から 冬の虹を見たかい
石のように弾む心
明日があるさ
明日があるさ
あしたがある
またあした
その帰り道、今日の楽しかった出来事を話すが、「石のように弾む心」夢の中にいたような出来事を現実の憂いが空笑いさせてるよう。
「明日があるさ、あしたがある、またあした」また現実と対峙する明日が始まる。自らに言い聞かせるよう。
でも最後は憂鬱さの中にも今日の出来事を糧にがんばろう、いや、がんばれるかな、といった少しの期待も見えてくる。
そういう意味でこの曲は単に希望をくれたり励ましてくれる歌、というより「みんなそうだよな、」って共感してくれてる歌のような気がしますね。現実世界は夢物語のようにはいかない。そういう人間くさいところをキチッと歌にするのがキリンジさんの素敵なところですね。
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